上総十二社祭保存会青年部

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TEL.0475-42-3446

参加地域:千葉県・一宮町・睦沢町・長生村・いすみ市

歴史や由来

歴史や伝統文化の紹介

上総十二社祭り概要


 この十二社(はだか)祭りは、約1200年前の大同2年(西暦807年)に始まったと伝えられています。房総半島に多い浜降り神事のなかでも最古の伝統と格式を誇り、現在は一宮町の無形文化財(平成15年4月 千葉県無形民俗文化財)に指定されています。

 十二社祭りは、玉前神社の祭神である玉依姫が上陸した、と伝えられる太東崎に、その一族である神々が年に1度集まることに由来する、といわれています。神輿を担ぐ人々が裸に近い姿で波打ち際を走ることから「裸祭り」の名前で親しまれています。

 この祭は毎年9月8日~14日にかけて行われ、13日が例大祭となっています。例大祭当日は、同一宮町の南宮神社、岬町中原の玉崎神社、同町椎木の玉前神社からそれぞれ大宮、若宮2基ずつの神輿、岬町谷上の谷上神社から1基の神輿、合わせて5社9基の神輿が一宮町東浪見の釣ヶ崎の祭典場へ渡御します。

 これに先立って10日には睦沢町岩井の鵜羽神社、13日には同町北山田の三之宮神社から大宮、若宮2基の神輿が一宮の玉前神社まで来ることになっています。近年では、長い間来ていなかった睦沢町下之郷の玉垣神社、茂原市山崎の二宮神社から大宮、若宮2基の神輿が玉前神社へ渡御しています。

 一宮町内では、8日の幟立てに始まり、9日からは玉前神社の神職の潔斎(様々な方法で清めること)、10日の稚児行列、11日の「火改め」などの行事が行われ、12日は御漱祭(おみすりさい)と称して神輿を清めて飾り、夜には神社の境内で宵祭が行われます。

 13日は昼過ぎに各神社を出発した神輿が釣ヶ崎の祭典場へ集まり、所定の位置で御霊合わせの儀式を行った後、順番に各神社へ戻っていきます。14日に幟を下ろし、全ての祭礼が終了します。


由緒


 一宮町は房総半島九十九里浜の最南端に位置し、一年を通して寒暑の差が少なく温暖な気候に恵まれた土地で、縄文弥生の頃から人々の営みがあったことが遺跡や貝塚などによって明らかにされています。
 歴史の古いこの一宮町の名称の由来となった玉前神社は上総国にまつられる古社であり、平安時代にまとめられた『※1延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)』では名神大社(みょうじんたいしゃ)としてその名を列せられ、全国でも重きをおくべき神社として古くから朝廷・豪族・幕府の信仰を集め、※2上総国一之宮(かずさのくにいちのみや)の格式を保ってまいりました。
 しかしながら永禄年間の大きな戦火にかかり、社殿・宝物・文書の多くを焼失しており、ご創建の由来や年数また名称についてなど明らかにされていませんが、毎年九月十日から十三日に行われるご例祭には少なくとも千二百年の歴史があり、移りゆく時代に少しずつその形を変えながらも、古代からの深い意義を連綿と守り伝えてきたことを何よりの宝物として、この郷の人々と共に大切にしています。
 「上総の裸まつり」「十二社まつり」と称されるこのお祭りは房総半島に多く見られる浜降り神事の代表として広く知られ、壮大な儀礼をひと目見ようと、関東一円から大勢の人々が集います。

≪ 解 説 ≫

※1) 延喜式
平安時代初期”延喜”の時代にまとめられた国家の法制の細目を定めた書「延喜式」50巻のうち9・10巻が「神名帳」とよばれる。

※2) 上総国一之宮
平安時代から中世の頃にできた一種の社格で、その国々において由緒の深い神社、信仰の厚い神社などおのずと序列ができその首位にあたるものが「一の宮」とされたようです。

◎ 名称の由来
御祭神に由来するという説、九十九里浜を古くは「玉の浦」とたたえ太東崎を南端とするところから玉崎(前)となったと云う説など諸説があります。


祭神

玉依姫命(たまよりひめのみこと)

 神話『古事記』には海神・豊玉姫命(とよたまひめのみこと)が夫・日子火火出見命(ひこほほでみのみこと)の故郷の海浜で御子・鵜茅葺不合命(うがやふきあえずのみこと)を出産の後、妹の玉依姫命にその御子の養育を託して海へ去られたことが記されています。


赤玉は 緒さえ光れど 白玉の 君が装いし 貴くありけり※2

 豊玉姫命は祝いの歌を添えて御子を玉依姫命に託されました。玉依姫命は陰となり日向となって赤ちゃんを守りお育てになる乳母(老いては姥)神様となられました。


ご神徳と信仰

 鵜茅葺不合命の旭日の働きである清新・発祥・開運・再生などの物事の新しく始まる事象が玉依姫命によって守護されるといい、人の精神にかかわること、縁結び、また子授け・出産・養育・月の物など神秘的な女性の心身の作用は、※3月のお働きをされる玉依姫命ご自身のお導きによるものと言われ、古くは源頼朝婦人政子が懐妊の際、安産の祈願をしたことが広く知られています。また縁結びは男女の縁ということだけではなく人と人の縁を結ぶとして商売や事業に関わる祈願をされる方が多いようです。また玉前神社には方除けのご祈願・吉方参りの参拝者が多く訪れます。ご祭神のご神徳と共に日本の東の端に位置する神社としての信仰があります。


≪ 解 説 ≫


※1) 玉依姫命
平安時代の法制書「延喜式」をはじめとして当社のご祭神は玉依姫命のみとされてきましたが、古社記には鵜茅葺不合命のご神名が併記されています。
また日の御子のご神徳に関わる信仰も厚いこと、1200年以上続く神幸祭(十二社まつり)では玉前神社から大宮・若宮の2基の神輿が出御されることなどから鑑みて、ご祭神に関しての考証がなされているところです。

※2) 玉の信仰
古代の人々は海から寄せられた石に霊力を感じ、これを光り輝く神として祀っていました。
九十九里浜地方に見られるこのような寄石伝説が一宮では明(あか)る玉(珠)の伝説として多く伝えられています。

一宮に汐汲みの翁がいて、ある早朝海辺で汐を汲んでいると東風(こち)が吹いて波間に光る12個の明(あか)る玉が現れた翁が持ち帰ると夜になってピカピカ光を放つのであわてて玉前神社の神庫に納めたという。

8月12日の晩に一宮の五兵衛という男に夢のお告げがあり、次の朝弟と海に行くと、東風が吹いて光る錦の袋が流れてきた兄弟はその袋を拾い上げ持ち帰って中を見ると、袋の中に光る珠が入っていたので神社を建て、その珠を納め、風袋(ふうたい)姓を名乗ったというその珠が12個あったともいい、珠を納めた神社が玉前神社であったともいわれている。
玉前神社のご例祭で12社の神輿が釣ヶ崎の海辺に会合するのはこれら12個の珠の説によるものともいわれ、このような12個の珠が2個の説、1顆の説もあります。

※3) 月のお働き
月の満ち欠けが潮の満ちひきを司っていることはよく知られています。
人間の身体は7割が水分といわれ、潮の干満と同じく人もまた月の影響を強く受けて、感情の起伏や身体のリズムが生じ、新月と満月は殺人や事故が多いことも警察・病院・消防等の調査で明らかになっています。
とりわけ女性の身心にはわかりやすく表れ、月の満ち欠けと同じサイクル29.5を平均値として「月のもの」が訪れ、この事が妊娠という最も神秘な働きにつながります。
満月の日に出産が多いということも古くから言われており、現在でも証明されているとのことです。太陽と月が一列に並ぶ新月と満月の一日と十五日は大潮になり、この日に月並祭が行われる習わしが現在でも続いています。 現在、玉前神社ではご例祭日にちなんで十三日に行っています。